これは、秘教家 アリス・ベイリーのはじめての著作である「イニシエーション」から、修行者の霊性の道の歩みについての教えを個人的にまとめた記事です。具体的には、本書の「第7章 見習いの道」「第8章 弟子であるということ」「第9章 イニシエーションの道」から抜粋してまとめています。
引用元の書籍はAABライブラリーで翻訳・発行されている「イニシエーション」です。
目次
参考図書
前提となる諸知識
アリス・ベイリーの著作について
この著書(他の著書もですが)は、アリス・ベイリーがヒマラヤに住む(時にはチベットのラマ僧の大きな一団を統括している)ジュワル・クール大師からテレパシーで受け取って書き記したものです。
邦訳は主にAABライブラリーから刊行されています。アリス・ベイリーの著作についてAABライブラリーのサイトから抜粋します。
アリス・ベイリーが 1919年から約 30年間に執筆した「秘教(エソテリズム)」と呼ばれる 24冊の著作、それは「エネルギーの科学」とも呼ばれ、物理的および心理的な現象の背後で相互に作用し合う様々なエネルギーの働きに関する科学です。内容はある意味では専門的ですが、別の視点から見れば極めて一般的なもので、心理学、哲学、宗教、医学、政治、教育などあらゆる分野を網羅するものです。
イニシエーションとは何か
まずはこの言葉の意味について押さえておく必要があります。イニシエーションは世間的には「通過儀礼」という意味によって知られています。
語源的には「着手すること」「あるものの中に入るということ」を意味しているといいます。そして、アリス・ベイリーの著作におけるイニシエーションの意味については、次のように本書に記されています。
最も広い意味でいうと、それ(イニシエーション)は、霊的な生活に入ること、あるいは霊的な生活の新しい段階に入ることである。
それは聖なる道における最初の一歩であり、またその後に続く数々の段階である。
知恵の殿堂に入るということ
また、別の観点からイニシエーションは「知恵の殿堂」に入ることであるとも説明されています。
多くの時代を通して、手探りで無知の殿堂を通過し、学びの殿堂に通い終え、大学つまり知恵の殿堂に今入ろうとしているのである。そして、この学校を修了したとき、彼は慈悲の大師という称号を得て、卒業することになる
そして、この知恵の殿堂において生徒(弟子)がひとつ上のクラスに進んだことを印すものがイニシエーションであるという。このイニシエーションによって生徒はどうなっていくのかということは次のように説明されています。
それ(イニシエーション)と共に、自分が生きとし生けるものと一つであるということをますます意識するようになり、自己がすべての自己と本質的に一体であるということを深く理解するようになる。
イニシエーションはヴィジョンが得られる山頂へと導く。それは過去と現在と未来が一つになる永遠なる今のヴィジョンである。
イニシエーションは人を十字架へと、徹底的な犠牲へと導くものである。この犠牲は、完全な自由が達成される前に起こらなければならないものであり、その結果として、イニシエートは地上のあらゆる束縛から自由になり、三界の何ものにも縛られなくなる。
イニシエーションには儀式が伴う
これらイニシエーションには儀式が伴い、その儀式はイニシエーターの達成段階を印すものであるといいます。この儀式によって2つのものが与えられます。それは(1)意識の拡大、そして、(2)束の間の悟り、です。
イニシエーションの儀式とは達成をもたらすものではなく、達成段階を印すものである、ということが強調されています。これはイニシエーションを受けた後の「行い」の重要性を説くものではないかと思います。
イニシエーションの後に行うべきことは主に、拡大した意識をパーソナリティーが実際に使える装備の一部にすることであり、これから歩んでいかなければならない道を修得することである。
と説かれている通りだと思います。
第7章 見習いの道
イニシエーションの準備
見習いの道とは、イニシエーションの道(聖なる道)の前にある準備段階のことです。本書では、これらを受胎・妊娠期間・誕生のプロセスに例えて説明されています。
曰く、受胎の瞬間が個別化に対応し、妊娠期間は内在する霊を発達させてゆく期間に対応し、誕生の瞬間が第一イニシエーションに対応するのだといいます。そして「見習いの道」はこの妊娠の後期に対応しているといいます。
この例えからわかるように、第一イニシエーションはゴールではなく、スタートラインだと言えます。本書ではそれ(第一イニシエーション)を「始まりを印すもの」と呼び、ここから道の巡礼が始まるといいます。
では、見習いの道において私たちはどのような修道に努めるのでしょうか。本書より抜粋します。
これ(見習いの道)は、人間がその人生において、紛れもなく進化の勢力の側につき、自分の性格を築き上げていく段階に入ったことを印すものである。
自分自身を統御し、自らの気質に欠けている様々な特質を培い、パーソナリティーを支配しようと勤勉に努力する。
計画的な意図をもってコーザル体を構築し、そこに透き間があれば、どのようなものであれ、それを埋め、コーザル体をキリスト原理の器としてふさわしいものにしようと努める。
それ(第一イニシエーション)までにすでに、正しい生き方、考え方、振る舞い方に関する一定の骨組みが築き上げられている。その形態を私たちは性格と呼んでいる。
見習いの道にある間、主に自分自身を知り、その弱点を突き止め、それらを修正するよう教えられる。
(見習いの道にある)彼は最初、見えざる助力者として働くよう教えられ、通常は何回かの生涯にわたってこの種の仕事を続ける。後に、進歩するにつれて、より高度な仕事へと移される場合もある。聖なる知恵の基礎を教えられ、学びの殿堂における最終学年に進級する。そして、彼は大師の知るところとなり、その大師の弟子の一人か、非常に有望な場合にはイニシエートに預けられる。
そして、見習いの道にある方々が、どのように教えを受けているかについて次のように説明されています。
第一段階と第二段階のイニシエートが様々な授業を行っている。それは、受け入れられた弟子と見習いの弟子たちのための授業であり、世界のあらゆる地域で夜の十時から翌朝の五時まで毎日行われている。そうすることで、常に教えを受けられるようにしているのである。彼らは学びの殿堂に集まるが、教え方は大きな大学で行われるのと大体同じであるーーつまり、何時間かの授業があり、実験があり、試験に受かると徐々に進級するという形である。
このように学びを進め、イニシエーションを受けた時に、学びの殿堂を卒業し、知恵の殿堂へと進んでいくといいます。この第一イニシエーションについて、次のように語られています。
そして今、この性格に生命を与えて、霊を宿らせなければならないのである。
形態に準備が整い、ソロモンの神殿が、パーソナリティー生活という石切り場から切り出された石で築かれたとき、キリスト生命がその中に入り、主の栄光がその神殿を包む。そうすることで、形態は活気に溢れるようになる。ここに、単なる理論とその理論を自分の一部にすることの違いがある。
教授方法
見習いの道には3つの指導部門があるそうです。
第一に、生活を規律あるものにし、性格を培い、宇宙的な方向性に沿って小宇宙を発達させる上で役立つ教えが与えられる。
この内容として以下のものが挙げられています。
● 自分自身がどのようなものであるかについて教えられる
● 自分が複合的ではあるが完全に一つにまとまった単一体であり、自分の外にある世界の小さな複製であることを知る
● 自分自身の存在に関する様々な法則を学ぶ
● 真我についての理解がもたらされる
● 太陽系の基本法則についての認識が生まれる
第二に、大宇宙に関する教えが与えられ、宇宙の働きに関して知的に理解したことを拡大するように指示される。
第三に、統合と呼んでもよいものに関する教えが与えられる。(中略)弟子はオカルト的な結合力と、太陽系を均質な単一体に保っている内的な統一の意味を学ぶ。
大師と弟子
弟子たちや見習いの道にいる進歩したエゴたちは、この時代、二つの特別な目的のために教えを受けているといいます。
一つ目は、
将来控えている特別な仕事に対する適性を見極めるため。それがどのような仕事かは、人類を導く方々だけが知っている。
二つ目は、
世界の歴史におけるこの危機の時代に転生してきた人々からなる特別なグループに対して現在与えられている教えがある。彼らは世界中で全く同じ時期に転生してきたが、それは物質界とアストラル界という二つの界層をエーテル界を通して結合するという仕事を行うためである。
次に、私たちが、大師方と弟子という主題をじっくりと考えていく上で、人しなければならない二つのことがあるといいます。
第一に、ハイラーキーが経済の法則を無視して浪費することは決してないということ。大師や教師がフォースを消費する場合はいつも、賢明なる先見と識別に従って行われる。私たちは初心者を教えるのに大学教授を当てるようなことはしないが、同じように、人々が一定の進化段階に達し、大師方の教えを役立てる準備が整うまでは、大師方自身が個人に対して働きかけることはない。
二つ目のことは、私たち一人ひとりが自分が発する光の明るさによって認識されるということである。これはオカルト的な事実である。私たちの諸体に組み込まれる物質の純度が高くなればなるほど、内在する光はより明るく輝くようになる。光は波動であり、波動を測定することによって学生の等級づけが行われる。したがって、三体の浄化に精を出しさえすれば、その人の進歩を妨げることができるものは何もないのである。
弟子の教えの受け方については次のように説明されています。
イニシエートたちは大師方や何人かの偉大なデーヴァつまり大天使から直接教えを受けている。こうした教えは通常、夜間に少人数のクラスで与えられるか、(そうするに値する場合は)大師の私的な書斎で個人的に与えられることもある。このことは、転生しているイニシエートにも、内界にいるイニシエートにも当てはまる。もしイニシエートがコーザル・レベルにいる場合、望ましいと思われる時にはいつでも大師からコーザル・レベルにいるエゴに直接教えが与えられる。
転生している弟子たちの場合は、夜間に大師のアシュラムつまり教室で、様々なグループに分かれて教えを受ける。
大師から直接教えを受けるために、定期的に催されるこの集まりとは別に、弟子は(特別な理由がある場合には)、大師の書斎に呼ばれて私的な面談を受けることもある。これは、大師が弟子に会って誉めたり注意を与えたりすることを望む場合、あるいはイニシエーションを受けるのかが望ましいかどうかを見極めたい場合に行われる。
弟子の授業の大部分はイニシエートかより進歩した弟子の手に委ねられている。彼らは若い兄弟を見守り、彼の進歩の責任を大師に対して負い、定期的に報告を提出する。この関係は主に、カルマによって決まる。
第8章 弟子であるということ
個人的に、この章は特に重要な内容ばかりなのですが、ポイントをまとめていきたいと思います。
弟子とは
ここでは弟子について7つの視点から説明されています。
(1)
弟子とは、何にもまして、次の三つを行うことを誓った者である。
a 人類に奉仕すること。
b 自分が理解する限りにおいて、偉大なる方々の計画に最善を尽くして協力すること。
c エゴの様々な能力を発達させ、三界とコーザル体で機能できるようになるまで意識を拡大させ、三重の低位顕現の命令ではなく高位我の導きに従うこと。
(2)
弟子とは、グループ・ワークを理解し始め、自らの活動の中心を(すべてのものごとが回転する中心軸としての)自分自身からグループの中心へと移そうとしている者である。
(3)
弟子とは、それぞれの意識単位は比較的取るに足りないものではあるが、同時に極めて重要なものであることをはっきりと知っている者である。彼の釣り合い感覚は調整されており、ものごとをありのままに見、人々をありのままに見、自分自身の本来あるべき姿を見て、自分自身であるものになろうと努める。
(4)
弟子は自然の生命面つまりフォース面を認識しており、形態には何の魅力も感じない。彼はフォースに働きかけ、様々なフォースを通して働く。また、自分がより大きなフォース・センターの中にある一つのフォース・センターであり、自分に注がれるエネルギーを、グループの役に立つ経路に流す責任が自分にはあるということを認識している。
(5)
弟子は、自分が大師の意識のーー大なり小なりのーー前哨基地であることを知っており、大師を二つの意味で捉えている。
a 自分自身のエゴ意識として。
b 自分のグループの中心、つまり、グループのメンバーたちを鼓舞し、彼らを一つの均質な全体へとまとめるフォースとして。
(6)
弟子とは、自らの意識を個人的なものから非個人的(非人格的)なものへと移行させつつある者である。この移行期には必然的に多くの困難と苦難に耐えることになる。この困難の原因になるものは様々である。
a 弟子の低位我。これが、変性されることに抵抗する。
b 身近なグループ、友人たち、家族。彼らは、弟子が非人格的になっていくことに抵抗する。彼らは生命面ではその弟子と一つとは認めようとしないが、欲求や利益が絡む場合には、自分と別個のものとは認めたがらない。しかし、法則は貫き通される。真の一体性は魂の本質的な生命においてだけ認めることができるものである。形態が何であるかを発見することで、弟子には多くの悲しみが生まれる。しかし、その道は最後には完全な一体性へと続いているのである。
(7)
弟子とは、自分の影響を受けるすべての人々に対する自らの責任を認識している者であるーー彼らのために存在する進化計画に協力することで、彼らの意識を拡大し、リアリティーとリアリティーではないものの違い、生命と形態の違いを彼らに教えるという責任である。弟子は自らの目標、目的、意識の中心が何であるかを自らの人生で身をもって示すことで、義務を何の苦もなく果たしていく。
行うべきこと
ここでは弟子が目指すべきことがいくつか説明されている。
● 大師の波動に敏感に反応すること
● 単なる理論としてではなく、実際に生活を浄化すること
● 心配しないこと(心配は私事に基づき、冷静さを欠き、低位世界の波動に簡単に反応することによって生じる結果である)
● カーマ・マナス体(欲求マインド体)について研究すること
● 肉体の構築に科学的に取り組むこと(弟子は転生するたびに、フォースの媒体として、よりよく機能する肉体を作るように努力しなければならない)
● 弟子は害悪を前にして沈黙するようにしなければならない。世界の苦悩を前にして沈黙し、無駄な嘆きや悲しみを表すことで時間を無駄にするのではなく、世界の重荷を背負うようにする
● しゃべることでエネルギーを浪費するのではなく、働くこと(しかし、励ましが必要なところでは、建設的な目的のために舌を使って語るべき)
● 荷を軽くし、苦しみを取り除くのに最も役立つ場合には、自分を通して流れる世界の愛のフォースを表現すべきであること
そしてここでは、弟子が実際的な発達をもたらす最高の手段のひとつとして「言葉」について語られている。
どのレベルの弟子であれ、実際的な発達をもたらす最高の手段がある。その一つが言葉である。自分の語る言葉に注意を払い、舌を介して愛のエネルギーを伝えるために愛他的な意図でしか語らない人は、イニシエーションの準備としてとるべき最初の段階を急速に習得しつつある人である。言葉は現存する最もオカルト的な顕現であり、創造の手段、フォースを伝える媒体である。
秘教的な意味で言葉を控えることでフォースは保存され、言葉を活用、つまり言葉を正しく選んで語ることによって、太陽系の愛のフォースーー保護し、強め、刺激するフォースーーが分配される。
言葉のこの二つの側面をいくらかでも知っている人でなければ、イニシエーターの前に安心して立たせることはできず、沈黙の誓いのもと、その臨在からいつくかの音と秘密を伝授されることはできない。
弟子の道は多難な道である
この項目は「弟子の道は多難な道である」という一言から始まっています。そして弟子が「人類への奉仕者」になるまでの道のりを次のように説明されています。
一歩ごとに茨が絡みつき、至るところに困難が待ち受けている。しかし、その道を進んで、困難を克服していくうちに、そしてメンバー一人ひとりに対して適切に気を配り、彼らの進化的な発達に配慮しながら、グループのためを一心に思い続けるうちに、ついには実を結び、ゴールへと至る。
このゴールは「人類への奉仕者」になるというゴールです。この「人類への奉仕者」がどのような方なのかということについては、次のように説明されています。
彼(人類への奉仕者)には自分のために叶えるべき目的は何一つなく、選んだ道から自らを逸脱させるような波動を低位三体から発することは決してない。そのため、彼は奉仕者である。
人間の内に何があるのかを知っているため、彼は奉仕する。
それはまた、彼が多くの生涯にわたって様々な個人やグループに働きかけ、徐々に努力の範囲を広げ、今では自分が活力を与えて役立てることのできる意識単位たちを自らの周りに集めているからでもある。彼らを通して、自分よりも優れた方々の様々な計画を一緒に成就することができる。
このように弟子の道についての素描を描いた上で、いくつかのアドバイスを説いてくださっています。
(1)「バガヴァッド・ギータ」の最初の三章を注意深く研究しなさい
(2)油断することなく、ハートを見守りなさい
(3)孤独になる覚悟をしなさい
(4)幸福感を培いなさい
(5)忍耐しなさい
偉大な方々のように愛するのは容易ではない。つまり、何の見返りも求めずに純粋に愛し、反応があれば喜びはするが、あえて反応を求めようとはせず、見かけ上のあらゆる違いを目にしながらも、揺らぐことなく、静かに、深く、非人格的に愛するのである。
肉体とアストラル体とメンタル体にまつわるすべてのものとの関係を断ち、エゴに集中するにつれて、一時的な別離が生まれる。これに耐え、乗り越えなければならない。そうすることで、その後には、関係するすべての人とのより親密につながるようになるであろう。この関係は、過去の生涯でのカルマやグループ・ワークで生まれたものであり、後に一緒に働くことになる人々を集めて行った自らの活動を通して生まれたものである。
落ち込んだり、動機を病的に調べたり、他人の批判に過度に敏感になったりするならば、ほとんど役に立たない状態になるということを知るべきである。
幸福感とは、内なる神への信頼、時間の正しい認識、自己を忘れることに根差したものである。喜ばしいものはすべて受け取りなさい。それは喜びを広めるために託されたものかもしれないからである。また、奉仕において幸福感や喜びを感じるのを、すべてがうまくいっていないことを示す印と考えて、嫌がらないようにしなさい。苦しみは低位我が逆らうときに訪れるものである。したがって、低位我を統御し、欲求を排除することによって、あらゆるものが喜びになるのである。
我慢強さはエゴの特性の一つである。エゴは自らが不滅であることを知っているため最後までやり通す。パーソナリティーは時間が短いと思っているため落胆する。
弟子には、計画にあるもの以外のことは何も起こらない
弟子に起こることについて次のように語られています。
大師の意思を遂行し、人類に奉仕することが、ハートにある動機であり唯一の熱誠であるならば、起こることは次の活動の種を宿しており、次の一歩を踏み出す上で必要な状況を具現化しているのである。
しかし、弟子のアストラル体に、古い波動に基づいた多くのことが起こるといいます。ゆえに、アストラル的な状態を統御することが戦場であるといいます。この制御を通して、現在の不安と心配から確信と平和が育ち、苦労の末に、落ち着きが生み出されるといいます。
では、何が起こっても内なる静けさをかき乱されない境地に達することはできるのでしょうか?
アリス・ベイリー/ジュワルクール大師は「可能である」と語っています。
この境地は「私はそれである(I AM THAT)」という知識に根差したものであり、時間と空間とそれに含まれるすべてのものがなうなったときにでも決してなくなることのない存在であり、そこには、その存在についての内的な認識に基づく至福そのものがあるといいます。
そこでは、人知を超える平和を知り、それを経験する。
そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。
そこでは、穏やかさが支配しており、波立ったり、揺れ動いたりすることはない。
では、どのようにして人はこの存在を知るのかというと次のように語られています。
低位界層のあらゆるイリュージョンを経験し、それを経験し終え、それを変性し、超越したとき、人はこの存在を知る。
そして、こうした経験をすることになる人々は次のような人々だそうです。
● 気高い努力を続ける人々
● 目標を達成させてくれるならば、どのようなことも意に介さない人々
● 目は前方のヴィジョンを見据え、耳はハートの静けさの中に響き渡る内なる神の声に傾け、足はイニシエーションの門へと至る道をしっかりと踏みしめ、手は世界への援助のために差し伸べ、全生涯を奉仕の呼びかけに捧げながら、様々な状況を乗り越えてしっかりとした針路をとる人々
(そうした人々にとって)病気、機会、成功、失望、敵対する人々の嘲りや陰謀、愛する人々の無理解、こうしたものはすべて、ただ活用すべきものであり、ただ変性すべきものとして存在している。
そのようなものすべてよりも、ヴィジョンと熱誠と内なる接触を絶やさないことのほうが重要である。状況がどうであれ、それらを保ち続けるよう目指すべきである。
進歩した弟子
次に、弟子が進歩するにつれてどうなるのかということについて説かれています。
彼は世の中で認められるようになり、何とかしてくれる頼りになる人と認められる。その認められた線に沿った力添えや手助けを求めて人々が訪れるようになり、様々な等級のデーヴァや人々に聞こえるよう自分の音色をはっきりと響かせ始める。彼はーーこの段階においてーー執筆、講演、授業、音楽、絵画、芸術を通してそのようにする。彼は何らかの方法で人々のハートに触れ、人類を援助し、人類に奉仕する者になる。
そして、この段階での特徴が2つ述べられています。
(1)この段階において、弟子は奉仕における金銭のオカルト的な価値を正しく認識している
具体的には、彼は、行うべき仕事に必要なものを身につけさせてくれるもの以外、自分のためには何も求めず、金銭や金銭で買えるものを他人のために活用すべきもの、自分が感じた大師の計画を達成するための手段と見なしていると語られています。
(2)この段階において、熱誠家の生き方はオカルト的な意味で破壊の道具にもなる
具体的には、高位界層や彼自身の内なる神から彼を通して流れるフォースが善悪両方を刺激するものとして作用すると語られています。
こうして弟子はーーエネルギーを正しい方向に向けて、フォースの流れを賢明に操作することを通してーーイニシエーションの門へと導かれ、学びの殿堂を卒業し、知恵の殿堂へと進む。
この知恵の殿堂で、彼は徐々に自分のエゴとエゴ・グループに潜在しているフォースとエネルギーに「気づく」ようになり、エゴ・グループのフォースが使えるようになる。なぜなら、今や人類を援助するためだけに使うことを信頼して、彼にその力を託すことができるからである。
第9章 イニシエーションの道
遅かれ早かれ、弟子はイニシエーションの門に立つことになる
イニシエーションの門に近づき、大師に近寄る弟子についての記述をまとめてみます。
● その足はハートの血に浸る
● その一歩一歩は常に、いずれかの界層でハートが大切にしているものすべてを犠牲にすることで踏み出される
● その犠牲は常に自発的なものでなければならない
● 道を歩むものは、犠牲を計算に入れて、価値観を見直してきたため、世間の人と同じような判断はしない
● 「力づくで王国」を奪い取ろうとしている者であり、その結果として起こる苦しみを覚悟している者である
● 目標を達成できさえすれば、あらゆるものを失ってもよいと考え、高位我が低位我を支配しようと奮闘する際に、進んで犠牲を払い、死さえも厭わない者である
大きなイニシエーションは、いくつかの小さなイニシエーションを一つにまとめたもの
私たちはいまここでイニシエーションのための準備を自ら整えることができると説かれています。私たちが理解すべきポイントは次の点だと思います。
日常生活の様々な出来事において絶えず意識を拡大させようと努めることによって初めて、それ以前の多くの段階の頂点でしかないイニシエーションという後の段階に達することが期待できるのである。
「非常に善良で愛他的」でありさえすれば、いつの日か突然、偉大なる主の前に立つであろうという考えを払拭しなければならない。
善良さや愛他主義は認識と奉仕によって育っていくものであり、気高い聖なる性格は、熱心な努力を通して自らの内に引き起こされる意識拡大の結果である。
まとめると、、、
1)「認識」「奉仕」「熱心な努力」を通して、
2)「意識を拡大」させることで、
3)「善良さ」「愛他主義」「気高い聖なる性格」が育っていき、
4)「イニシエーション」という段階に達することができる
ということだと思います。
では、イニシエーションの準備とはどのようなものかといいますと次のように教示されています。
(その準備は)メンタル体の着実な発達に整然と辛抱強く取り組み、以下に示す三つの波動に反応するようにアストラル体を熱心に根気強く統御することによって整えるのである。
その三つの波動とは、
1)エゴからの波動
2)大師からの波動
3)自分の周囲の至るところにいる兄弟たちからの波動
です。
彼は高位我の声に敏感になることで、エゴの知的な導きのもとでカルマを解消していく。
また、大師から発せられる波動をエゴを介して意識するようになり、ますます大師の波動を感じ、より十分にそれに反応するようになる。
そしてやがて、日常で接する人々の喜び、苦しみ、悲しみにますます敏感になり、それらを自分の喜び、苦しみ、悲しみと感じるようになるが、そうすることで能力をそがれることはない。
”イニシエーションは普遍的に適用されるが、完全に個人的な事柄であり、個人の内的な達成によるものである”
イニシエーションという大きな意識拡大は、多くの小さな意識拡大の成果であるといいます。
しかし、好奇心や普通の善良な生活を送ったとしても、イニシエーションの門に至ることは決してないといいます。
好奇心は、本当に関心を抱いている目標に向かわせることはなく、低位性質に強烈な波動を掻き立てることによって逸脱させるだけである。
善良な生活も、他者への完全な犠牲の生活、沈黙、謙虚さ、異常なまでの私欲のなさによって磨きがかけられなければ、イニシエーションの門までの間に立ちはだかるフォースやエネルギーに打ち勝つ役には立たないといいます。
以上がアリス・ベイリー「イニシエーション」から《弟子の歩む道》についての教えの抜粋になります。
最後に、次の言葉を引用して終わりにしたいと思います。
弟子の道を辿るのは困難であるが、イニシエーションの道はさらに困難である。
イニシエートとは戦場で傷を負った戦士であり、勝利し難い多くの戦況を乗り越えた勝者でしかない。