ウパデーシャ・サーラムは、信奉者たちの要請に応えてラマナ・マハルシ御自身が作られた詩です。
ウパデーシャとは「教え」、サーラムは「精髄」。つまり、ウパデーシャ・サーラムとは《教えの精髄》を意味します。この30連の詩に、ラマナ・マハルシの教えのエッセンスが含まれているといいます。
ウパデーシャ・サーラムの朗唱
ウパデーシャ・サーラムの詩頌
1.
行為(カルマ)は(行為の中に)果実を生む。
何故なら創造主がそのように定めたのだから。
しかしそれは神なのか。
(そうではありえない、何故なら)
それは知覚力のあるものではない。
2.
行為の結果は消えるが、行為の大海に行為者を投げ込む種子を残す。
それゆえに行為は解放をもたらさない。
3.
しかし、なんの執着もなく、神への奉仕の精神で行われた行為は、心を浄化し解放への道を示す。
4.
礼拝、マントラを唱えること、瞑想は、それぞれ肉体、声、心によって行われ、この順序に価値が高くなる。
これは確かな事だ。
5.
人はこの八つの要素からなる宇宙を神の顕現とみなすことができる。
そこで、その中で行われるどんな礼拝も、神の礼拝のようにすぐれている。
(5元素、「地、水、火、風、空」と太陽、月、個我の8つ)
6.
かれの名の朗唱は、賛歌よりすぐれている。
なおいっそうすぐれているのは、そのかすかなつぶやきである。
しかしもっとすぐれているのは、心の中での唱名であり、それはさきに言及した瞑想である。
7.
そのような断続的な思考(瞑想)よりいっそうすぐれているのは、油か夏涸れのない流れのような間断のない連続した瞑想である。
8.
「私はかれである。」とう高慢な態度は、「かれは私ではない」という態度より望ましい。
9.
熱烈な帰依によって、実在の中にとどまり、すべての想念を超越することは至高のバクティの精髄そのものである。
10.
「源への吸収」あるいは存在の核(あるいはハート)への吸収は、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナの道が教えるところである。
11.
鳥が網で捕らえられるように、呼吸を保持する事によって心は制御され没入させられる。これ(呼吸の調節)は、効果的な没入のための手段である。
12.
何故なら、思考と行為の中に表現される心と生気(プラーナ)は異なるものであり、枝分かれするが、それらは単一の根から成長するのだ。
13.
没入にはラヤとナーシャという二つの形がある。
たんにラヤに没入しただけのものは蘇生するが、もしそれが死滅しているならば、蘇生することはない。
14.
呼吸の制御によって心が没入させられたとき、もしそれが一点に固定されたならばそれは「死滅」するだろう。(すなわち、その形は消滅するだろう)
15.
心が消滅させられ、ブラフマンの中に安息している偉大なヨーギーは、彼の真の本性(ブラフマン)に到達しているので、カルマを持たない。
16.
心が外部の感覚対象から引き下がり、それ自身の光り輝く形を見つめる(すなわち、神秘的な内観に従事する)とき、それは真の智慧である。
17.
心が絶え間なくそれ自身の本性を探求するならば、心のようなものは無い事が明らかになる。
これがすべてのものにとって直接の道である。
18.
心はただの想念にすぎない。
すべての想念の中で「私」という想念が根元である。
(それゆえ)心はただ「私」という想念にすぎない。
19.
「どこからこの《私》が現れるのか」
それを内部に捜しなさい。
そうすればそれは消滅する。
これが知恵の探求である。
20.
「私」が消滅するところに、「私ー私」がひとりでに姿を現す。
これは無限なるもの(プルナム)である。
21.
これはいつも「私」という用語の真の重要性である。
なぜなら、目覚めた「私」がいない最も深い眠りの中でさえ、私達は存在するのをやめないのだから。
22.
肉体、感覚、心、生気(プラーナ)、無知(アヴィディヤまたはスシュプティ)はすべて知覚力のないもので実在ではない。
私は存在(サット)である。
これら(鞘)は私ではない。
23.
それが存在するのを知る第二の存在はないのだから、「存在するもの」は意識である。
私達はそれである。
24.
創造物と創造主の存在の中にある一者である。
それらの相違は、それらの知識とその他の属性の程度にある。
(大きさの違いであって、種類は同じ)
25.
創造物が属性をもたずにそれ自身を見、それ自身を知るならば、それは創造主の知識である。
なぜなら、創造主は真我以外の何ものでもないものとして、現れるから。
26.
真我を知る事は真我である事である。
二つの分離された自己はないから。
この(状態)はタンマヤ・ニシタ(それとしてとどまること)である。
27.
それは知識と無知の両方を超越した真の知識である。
そこには知られるべき対象は何もない。
28.
人の真の本性が知られるならば、そのとき始めも終わりもない存在がある。
それは完全無欠な自覚の至福である。
29.
束縛と開放のすべての想念を超えて、最高の至福の状態にとどまることは、至高者への奉仕のなかにとどまることである。
30.
「私」のすべての痕跡が消え失せたときに存続するそれの実現が本物のタパスである。
そのようにすべての真我であるラマナは歌う。