ヒンドゥー教

「真我」についてのダルマの抜粋 │ 3人の覚者と1冊の聖典より

この記事では「真我」についての覚者や聖典のダルマをまとめてみました。

それぞれの覚者や聖典の教えを参考書籍から任意に抜粋したものです。

ラマナ・マハルシ 1879~1950

ラマナ・マハルシの教え

真我だけが実在である。それ以外のすべては非実在である。

「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理の要諦である。その方法は、「静かに在ること」に尽きる。

では静寂とは何を意味するのだろうか? それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。「私はこれである」という観念を放棄しなさい。

真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。それ以上簡単なことがあるだろうか。

現在のあなたは、あなた自身を偽りの「私」、つまり「私」という想念と同一化している。この「私」という想念は立ち現れては沈みゆく。それに反して、真の「私」はそのどちらも超えている。

真我探求とは、つねに心を真我のなかだけにとどめておくことである。

心はただ、「私は誰か?」という探求によってのみ沈黙する。

「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えている薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」という想念自体も滅ぼされてしまうだろう。

他の想念が現れたときは、考えることをつづけず、「その想念が誰にとって現れたのか?」と尋ねるべきである。

いかに多くの想念が現れようとかまいはしない。想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく、「これは誰にとって現れたのか?」と問えば、それは「私にとって」であることがわかるだろう。

そのとき、「私とは誰か?」と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、現れでた想念も静かになるだろう。

このように繰り返し実習することによって、心は源にとどまる術を見いだすだろう。

「真我とは何か?」についてのラマナ・マハルシの教えこの記事はラマナ・マハルシのダルマから「真我とは何か」について語られた教えを抜粋したものです。私たちが真我探求の道を歩み出す前に、そもそ...

参考書籍

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ニサルガダッタ・マハラジ 1897~1981

ニサルガダッタ・マハラジの教え

私は在る。

そして、私が在るゆえにすべては在る。

「私は誰か?」という質問に答えはない。

いかなる体験もそれに答えることはできない。

なぜなら、真我は体験を超えているからだ。

質問者 あなたがどうやってマインドを超えたのか、尋ねてもよいでしょうか?

マハラジ グル(師)の恩寵によってだ。

質問者 彼の恩寵はどのような形をとったのでしょうか?

マハラジ 彼は、何が真実なのかを私に告げたのだ。

質問者 彼は何を告げたのですか?

マハラジ 私が至高の実在だということを告げたのだ。

質問者 あなたはそれについてどうしたのでしょう?

マハラジ 私は彼を信頼し、それを覚えたのだ。

質問者 それですべてですか?

マハラジ そうだ。私は彼と彼の言ったことを覚えていたのだ。

誰もが自分自身に気づいている。自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。それはすべての人たちのためにある。誰もそれにとって未熟ではない。そして誰にも失敗はありえない。

しかし、もちろん注意するだけではない。あなたの留意はマインドをも含まなければならないのだ。観照とは、根本的に意識とその動きへの気づきなのだ。

真我の実現とは、あなたが個人ではないという事実なのだ。

(中略)

自由とは何かからの自由だ。あなたは何から自由になるというのだろうか?

明らかに、あなたは自分自身だと思いこんでいる個人から自由にならなければならないのだ。

なぜなら、あなたが自分自身に関してもっている観念、それがあなたを束縛しているからだ。

マインドを信頼せず、それを超えていきなさい。

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プンジャジ 1913~1997

プンジャジの教え

今、あなたは自己本来の純真さに戻りたがっている。何か新しいものを得ようとしているわけではない。そうではないかね?

あなたはただ自己本来の純真な姿に戻ろうとしているだけだ。

あなたを賢くしたものすべてを棄て去れば、自己の本性、本来の自己に帰りつくのだ。

それが私たちが自由と呼ぶものだ。この自由は「・・・からの自由」だ。あなたは習得したすべてから、学んだことすべてから、読んだものすべてから、聞いたことすべてから自由になるのだ。

あなた自身の真我を頼りにすることが常に最高の道なのだ。そうすれば、けっして道に迷うことはない。

真我を実現した後、真の瞑想が始まる。

その状態で理解することは何もない。それゆえ、理解することのできない真我があなたをそれ自体の中に引きこみ、あなたの注意が揺るぎなくそれに集中するようにさせるのだ。

あなたのすべての注意が真我の中に引きこまれ、そこに集中するとき、これを真の瞑想という。

判別してはならない。物事が現れては去っていくにまかせなさい。

「私は自由だ」は健康な想いだ。もしこの想いを心にとどめれば、すべてはたちまち健康になる。もしそうしなければ、誰もが苦しむことになる。

(中略)

「私は身体だ」と言うとき、それが病んだ想いなのだ。もし「私は身体だ」と考えるなら、あなたは墓場で生きているのと同じだ。すべての身体は遅かれ早かれ墓場に帰る。そうではないかね?

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アシュターヴァクラ・ギーター

アシュターヴァクラ・ギーターの教え

もし自由になりたいのなら

あなたはこれらすべてを観照する真我

覚醒のハートだということを知りなさい

ただ自己の気づきだけを求めなさい

私は身体ではなく

身体は私のものではない

私は分割されない気づきそのもの

ただ生きることへの渇望に

縛りつけられていただけ

彼は考えることなしに考え

感じることなしに感じる

彼は聡明だが

心をもたない

彼には人格があるが

自分という考えがない

わが子よ、

あなたは純粋な気づき

それに他ならない

あなたと世界はひとつ

ならば、どうしてそれに執着したり

それを放棄したりできよう?

いったいどうして!

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まとめ

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、プンジャジ、アシュターヴァクラギーターの教えの一端を抜粋させていただきました。

真我に関心をもたれた方は、是非、参考文献を直接手に取っていただくことをオススメいたします。

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