このタイトル記事のシリーズは、ダライ・ラマ法王猊下より無上瑜伽タントラ(チッタマニターラ尊)の灌頂を授かったことに直接的、間接的に関係している因縁について記載していきます。
平成28年(西暦2016年)11月13日(日)
この日、釈尊よりインド・チベットと脈々と伝えられてきた聖性の体現者であり、チベット仏教の最高指導者であられるダライ・ラマ法王猊下による無上瑜伽タントラの灌頂会が日本に於いて初めて行われました。
道場となったのは大阪府にある清風学園です。
私に与えられたのは法王猊下のほぼ正面10メートルぐらいにある席でした。最前列の数列は僧侶のために設けられており、主に真言宗系の僧侶と思われる方々で埋め尽くされていました。
僧侶席の後部にメインの通路が設けられており、その先に、入檀者のための席が階段状に設置されていました。
法王猊下が到着されるのをお待ちしている間、まわりから聞こえてくる会話は様々でした。
2016年末にインドのブッダガヤで開催されるカーラチャクラタントラの灌頂会に参加するための打ち合わせをしている方、ダライ・ラマのこともよく知らないけれど参加したという方、まっくらな洞窟のなかでのゾクチェンの瞑想修行を終えられたという方、、、。
歩いている入檀者も多国籍でした。日本人、チベット人、台湾人、ヨーロピアン、ロシア人(風)、モンゴル人(たぶん)、などなど。
また会場には、秘密集会タントラの和訳を上梓されており、この度の秘密集会灌頂を人生の集大成であると記されていた真言宗の元管長である松長有慶師や「聖ツォンカパ伝」を翻訳されている石濱裕美子教授もおりました。
通訳はマリア・リンチェンさん、そして、日本人で初めて秘密集会タントラの灌頂を授かった清風高校の校長である平岡宏一さんのお二人でした。
(実際の通訳の様子を拝見していると、主に顕教についてはマリアさん、特に密教に関するものについては平岡さん、という役割分担をされている様子でした。また通訳は、適宜、解説や注釈をいれながら進めてくださっておりました。)
私は、ここにいるそれぞれの人が、それぞれの出来事、経験、出会い、学び、思いなどの背景をもってこの場所に参集しているということに思いを巡らせていました。
(個人的には、松長有慶師の「秘密集会タントラ和訳」も読ませていただいており、私がまだ仏教を学び始めた頃に石濱教授の翻訳されている「ダライ・ラマの仏教入門」でブッダダルマを学んだことがあり、さらに「聖ツォンカパ伝」もこの灌頂会の直前に購入して読み進めていたこともあり、心の中でそのお仕事に感謝しておりました。また、平岡宏一さんと根本グルとの邂逅や修行の遍歴について石濱教授が上梓された「ダライ・ラマと転生」という本を事前に読んでいたこともあり、この灌頂会における平岡さんのご尽力にも想像を巡らせておりました。)
壇上正面に目を向けると、法王猊下の宝座の上空に釈迦牟尼仏、その両脇にターラ尊と思われるタンカが掲げられており、壇上左には、秘密集会(阿閦金剛と触金剛女の父母仏)のタンカが安置されており、その前には、インドから来日されたギュメ寺の僧侶の方々によって築かれた秘密集会タントラの砂曼荼羅がありました。
この灌頂会は、当初、チベット仏教のゲルク派が最高教義と位置づけている「秘密集会タントラ」の灌頂が執り行われる予定でした。しかし、灌頂会の数日前に、法王猊下が体調を崩されたことから、法王猊下のご判断によって、秘密集会タントラではなく、チッタマニ・ターラ尊という無上瑜伽タントラに属する教えの灌頂に変更になりました。
この変更の知らせを聞いたとき、私は少なくない戸惑いを感じました。それは主催者の方々はもちろん他の入檀者の方々も同様だったのではないかと思いました。
その時の私は、この出来事は、秘密集会タントラが日本にはまだ時期尚早だったということなのだろうか、それとも、チッタマニターラ尊の灌頂が最善のものであるということなのだろうか、または、その両方か、あるいは、どちらでもないのだろうか、などと想像を巡らせていました。もちろん私自身には知る由もありません。
灌頂の日、私は会場の自分の席に座って正面にあるまだ誰もお座りになっていない法王猊下の宝座を見つめながら、このような稀有な機会を頂戴することができたことの有難さを思い、深く感謝していました。
ダライ・ラマ法王庁の記事へのリンク
当灌頂会に関するダライ・ラマ法王庁の記事と写真へのリンクを下記します。
ニュース記事
2016年11月11日 シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』初日
写真記事
次回は、私個人のダライ・ラマ法王猊下の思い出について記していきたいと思います。