このタイトル記事のシリーズは、ダライ・ラマ法王猊下より無上瑜伽タントラ(チッタマニターラ尊)の灌頂を授かったことに直接的、間接的に関係している因縁について記載していきます。
今回は、ダライ・ラマ法王猊下についての私個人の思い出(期間にすると10年半ぐらい)についてまとめてみたいと思います。
目次
1、インドのブッダガヤでの最初の出逢い(2006年)
2006年2月3日、私たちの目の前をダライ・ラマ法王を乗せた車が通り過ぎていきました。
当時、私は、バックパッカーとしてインドを放浪している最中、ブッダガヤというお釈迦様がお悟りを開かれたという地に滞在して数ヶ月が経つ頃でした。
その時の私は「ダライ・ラマ? 聞いたことがあるようなないような」というぐらいの理解しかなく、中国がチベットを占領していることも、チベット人たちがインドに亡命して亡命政府がインドにあることも、ダライ・ラマ法王がその指導者であるということも、ほとんど知らない状態でした。
その当時一緒にいた日本人の友人は、チベット亡命政府とダライ・ラマ法王の邸宅があるダラムサラという街に滞在していたことがあり、ダライ・ラマ法王のティーチング(法話)にも参加したことがありました。
私は、その友人やインド人やヨーロピアンの友人たちから話を聞いて、チベット人とダライ・ラマ法王についてのイメージをふくらませていました。
その時の理解としては、とにかく、チベット仏教におけるすごい方だというぐらいのものでした。
2006年2月13日、法王猊下は「Buddha Jayanti」というお釈迦様の生誕祭のイベントで法話をされました。
その時の法話で私の記憶に残っているのは「仏教は心の科学」というお言葉です。それがどのような文脈で話されていたのかは、私の英語力では理解できなかったのですが、そのフレーズだけは印象に残りました。
また、その後、マハボディ寺院というお釈迦様がお悟りを開かれた地に建てられた寺院で法要を営まれました。
寺院の敷地がひと、ひと、ひとで埋め尽くされていました。
この時にはじめて法王様の読経を聞いたのですが、普段の快活で高い声からは想像もつかないぐらいに、重く低く響き渡るような読経で、良い意味で鳥肌が立つような音声に驚いたことを覚えています。
また、この時、カルマパ17世猊下もブッダガヤに滞在されており法要に参加されていらっしゃいました。
私はこの機会にと思い、別の日に開催されたカルマパ猊下のティーチング(法話)にも2回参加しました。
カルマパ猊下の最初のティーチングにハンガリー人の友人と一緒に向かったのですが、その時、彼女がはじめてダライ・ラマ法王に(対面で)お会いしたときの話を聞きました。
彼女曰く、ダライ・ラマ法王の目の前に立つと全身のエネルギー(彼女はクンダリーニと言っていた)が激しく上下するのを感じ、同時に、深い至福に満たされたということでした。
そして、この時期は、ちょうど私が仏教の勉強を始めたところでした。
まわりにいる人たちは少なからず仏教に興味関心がある人たちが多かった(仏教の聖地だから当然といえば当然ですが)こともあり、とてもめぐまれた環境で仏教、ダライ・ラマ、チベット密教の話などに耳を傾けることができたと思います。
あるロシア人の女性は、カルマパ猊下の本をロシア語に翻訳する仕事が決まったと喜んでいました。
ダライ・ラマ法王のティーチングのオーガナイズに関わっているアメリカ人の夫婦がいました。
カルマ・カギュ派の絵師としてカギュ派の寺院の壁画を描く仕事をしているチベット人の青年がいました。
毎年数ヶ月、ブッダガヤのビルマ寺院に滞在し、ヒーリングの講義などをしているオランダ人のおばちゃんがいました。
仏教への興味が高まって学び始めた20代前半の私にとって、とても刺激的でめぐまれた環境だったと思います。
当時は朝5時頃に起きて、日本寺で瞑想をしてから太極拳とヨガをして、それからマハボディ寺院にいって瞑想をして、8時か9時頃から夕方までは、インド人の友人の本屋を手伝う仕事をしながら、世界各国の旅行者と談笑したり、読書をして、夕方以降に、マハボディ寺院にいって瞑想する、という毎日でした。
いま思い返しても、環境にも人にもめぐまれていたなと思います。有難いことです。
2、ダラムサラで観音菩薩の許可灌頂を授かる(2007年)
2007年8〜10月、私は再びインドを訪れていました。
当時、法王様のお住まいがあるダラムサラという街でチベットマッサージのお店の手伝いをしている友人がいました。
その友人がお手伝いの合間でインドのラダック地方を旅しており、彼女が首都デリーに戻ってくるのと、私がインドのデリーに到着するのがほぼ同日だったため、一緒に、ダラムサラに向かうことになりました。
そして、ダラムサラに着いて数日後に、ちょうど法王猊下のティーチングがあるということがわかり、また、マリア・リンチェンさんが、その法話に参加するために日本からきた旅行者向けに法話の通訳をされるということでした。
(マリアさんは、この記事のタイトルにあるチッタマニターラ尊という無上瑜伽タントラの灌頂会の通訳をされていた方です。)
当時、友人がマリアさんと仲が良かったこともあり、その旅行者たちと同席させていただいて、マリアさんの日本語通訳を聞きながら法話に参加することができました。
法話はナーガールジュナ(龍樹)の著した「菩提心論」がテキストでした。このテキストをマリアさんが日本語訳したものを印刷して渡してくださいました。ちなみに、このテキストはいまも大切に保管して読み返しています。
法話の内容は難しいところが多くあまり覚えていないのですが、法話が終わって法王猊下が目の前を歩いて通り過ぎられるときの様子が強烈にイメージに残っています。数十メートル先に法王様が見えたとき、あたりが幸せな空気に包まれるような感覚になり、不思議と心が安らぐのを感じました。
法話の翌日、観音菩薩の許可灌頂が行われ、私もこの許可灌頂を授かることができました。
当時の私は許可灌頂がなにかもよくわかっていない状態でそこに座っていました。
後日談ですが、その後、日本に帰国してから数ヶ月、何故か観音菩薩というフレーズや発言や出来事に出会うことが頻繁にあり、私はその度に「なんでだろう?」と考えていたのですが、ある日、不意に、数ヶ月前に法王猊下から観音菩薩の許可灌頂を授かっていたことを思い出し、自分の理解は超えているけれどあの許可灌頂とこれらの出来事にはなんらかの関係があるのだろう、という思いにいたりました。
気づくのがかなり遅かったのですが。
3、法王猊下の書籍を通して仏教の顕教を学ぶ
観音菩薩の許可灌頂を授かって日本に帰国してからの数年間は、もっぱら書籍を通して仏教の顕教を学び続けていました。
当時読んでいた本などについては次の記事でまとめてみたいと思っています。
この時期の学びを通して、ブッダダルマの普遍性、理路整然とした体系、経験に裏づけられた実践的哲学、教えの多様性などをより深く学ぶことができました。
この時期に、日本の仏教はもちろん、ラマナ・マハリシやラーマクリシュナなどのインドの聖者の教え、マザーテレサの生涯と教え、ニューエイジに関するスピリチュアル思想なども同時に学んでいましたが、やはり特には、チベット仏教で大成された仏教哲学について学んでいました。
当時の私を思い返すと、哲学を理解することと実践することの違いについては、まだまだ全然わかっていない頭でっかちな状態だったと感じます。
あとは、私の夢に法王様が出てこられるということが何度かあったのを覚えています。夢の内容はいまでも明確に覚えていますし、そのような夢を見れたことを嬉しく感じていました。
この時期に読んでいた主な書籍はこちらで紹介しています。
4、護国寺での東日本大震災の49日法要に参列する(2011年)
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、いまも思いをそこに向けると涙が出てきます。
当時は、日本はこのままどうなってしまうのだろうかという思いとともに、何かどうしようもなく重たいものがまわりを覆っていたような感じがして、自分が被災したわけではないのですが、それまでの日常の感覚が思い出せなくなるような空気のなかで日々を過ごしていたように思います。
そんな中、4月29日に、法王猊下が東京の護国寺において東日本大震災の49日法要を厳修なさるという一報が飛び込んできました。
しかも、ちょうど私と彼女(いまの妻)はその前後の日程で、東京経由で関西に行く予定をしていたところでした。
妻はそれ以前から法王猊下が大好きで「いつか絶対、直接、法王様にお会いしたい!!」と常日頃からいっていました。
というわけで、法要に参列することが決定しました。
慰霊法要の途中から、突然、雨が降り出しました。それまで晴れていたのに、どしゃぶりの如く降り始めました。そして、法要と最後の法話が終わって法王様が帰路につかれるとき、雨は一気にあがりました。
私たちは、これは亡くなった人たちの供養の雨だったのだろうか、安らかに成仏してくださったのだろうか、と思いを巡らせていました。
また、この時、私たちにとって個人的に思い出深い出来事がありました。それは、法王猊下が妻の両手を握ってくれたことです。
妻は法王猊下が近くをお通りになられたとき、なんとか法王様と握手しようと手を伸ばしましたが、屈強なSPの方に手をはじかれてしまいまいた。その時、法王様がはじかれた妻の手を握ってくれたのです。そして、さらにはもう片方の手をも握ってくれました。
これは私たちにとってとても喜ばしく思い出深い出来事でありました。
法要に関するリンク
東日本大震災四十九日特別慰霊法要での法王談話(ダライ・ラマ法王日本代表部事務局)
5、新婚旅行でダラムサラのティーチングに参加する(2012年)
私たちの新婚旅行は1ヶ月間のインド旅行でした。
インドに到着してから、まず私たちは、近代インドの大聖者であられるシュリ・ラーマクリシュナの教えを護り修め体現する僧団であるラーマクリシュナ・ミッションの本部があるベルルマトというところに滞在しながら、ラーマクリシュナ、ホーリーマザー、ヴィヴェーカーナンダの所縁の地を巡礼しました。
次に、釈迦牟尼仏が成道された地であるブッダガヤに参拝し、金剛宝座というブッダがまさに成道された場所の御前で「結婚の誓い」を宣誓しました。
それから私たちはダラムサラに向かい、法王猊下のティーチングに参加することができました。
台湾人グループの懇請によって開催されたティーチングで、テキストはアティーシャの「菩提道灯道」でした。この時は英語通訳を聞くためのラジオも持っていったのですが周波数がうまく合わずに聞くことができませんでした。
私たちは、法話の内容はわかりませんでしたが、静かに法王猊下のお声に耳を傾けていました。
写真は法王様が法話をされるときにお座りになる宝座です。
6、初めて来訪された北海道での講演会に参加する(2015年)
2015年初頭、法王様が初めて北海道に来訪されるというニュースが飛び込んできました。私たちが生まれ育った土地に法王様がいらっしゃるということに、大きな喜びを感じました。
もちろん、私たちは迷うことなくその講演会に参加することを決めました。仕事の有給を取得し、航空券の手はずを整え、準備万端で当時住んでいた大阪から北海道に向かいました。
講演会の内容は、一般聴衆向けの世俗的な倫理についての法話が多かったです。
このとき、私たち家族には1歳になったばかりの娘がいて、家族で法王様にお会いできる、もっと言えば娘が法王様にお会いできる機会をつくるということがひとつの大きな目的でもありました。
会場では、予想以上に多くの知人と再会することもでき、法王様のもとにそれぞれが集まり再会できたことも喜びでありました。
ただひとつ違和感を感じたのは、主催者側の法王猊下の表記が、「ダライ・ラマ法王14世氏」というものだったことです。
まず、普通の日本語の感覚として位をあらわす言葉の後ろに「氏」はつけないのではないかと思いました。例えば、ローマ法王氏、大統領氏なども同じような違和感を感じると思います。
あと、個人的には、その表記の仕方から世俗的なものの匂いも感じ、そこから主催者側のスタンスも他のティーチング(法話)などとは大きく違うのだろうなということを考えていました。
講演会で再会した知人の中には、「いつかダライ・ラマ法王に北海道でカーラチャクラ・タントラの灌頂会をしていただきたい」という夢を抱き、何とか実現できないだろうかと動いておられる方などもいました。
いきなりカーラチャクラ・タントラ(時輪タントラ)の灌頂会というのは難しいかもしれませんが、私としては、まずは、法王様から普遍的なダルマについての教えを聞きたいという私たち自身の動機にもとづいたティーチングや灌頂会が開催される日が来ることを心から願いました。
また参加された友人の中には、法王様が壇上にいらっしゃるだけで頭頂から慈悲のエネルギーが注ぎ込まれて全身が至福に満たされたという話をされている方もいました。
7、秘密集会(グヒヤサマージャ)タントラの灌頂会に申込む(2016年)
2016年7月、何気なくネットサーフィンをしていた私に衝撃のニュースが飛び込んできました。
それは、ゲルク派の最高奥義である秘密集会タントラの灌頂を法王様が日本で執り行われるということでした。
これは、法王様が無上瑜伽タントラの灌頂を初めて日本で授けられるというだけでも大きな出来事であるというのに、さらには、その無上瑜伽タントラというのが、かの秘密集会タントラであり、法王様においてはこれまでチベット僧向けにしか授けられたことがない灌頂であり、それがこの東端の日本の地において僧侶のみならず在俗の修行者に向けても授けられるというこれ以上ないほどに稀有な機会でした。
しかも、幸いなことに申込開始にはまだ数日ありました。
(私がたどり着いたページは、こちら、です)
私は静かな興奮を抑えることができませんでした。ただ、その時の私の心の中には二つの思いが同居していました。ひとつは、このような機会に直接法王猊下から灌頂を授かりたい、というもの、そして、もうひとつは、私のようなものがこのような密教の灌頂を受けてよいのだろうか、というものです。
密教の灌頂というのは誰でも簡単に受けられるものではない、と私はそれまでの学びや経験から考えてきました。
私は、密教は大きな心身の変容を伴う教えであり、弟子が教えを受ける器であるか、弟子に正しい動機があるか、また、弟子は教えを授かったあとに正しく修行し続けられるかどうか、そして、何よりも密教を伝えてくださる師がその弟子をその教えを授けるにふさわしい者として受け入れてくださるかどうか、そのような諸々の因縁をもとに授法することができるものだと考えていました。
また、同時に、私にはこれまでに仏法にそぐわない悪しき業を積み上げてきたという過去があり、そのような心身の器をもつ者が授法しても良いものだろうか、という思いもありました。
そのため、色々な思いが私の中をめぐり、数日、どうするかを考え続けました。
数日後に出した結論は、灌頂の申し込みをしよう、というものでした。
(とはいえ、心の迷いは申込をしてからもしばらく続いていました。)
私自身がこの灌頂を授かることができる器かどうかはわからないが、大乗仏教の大道を学び修めていきたいという思いに変わりはなく、もしも密教の道に参入したあとで私自身の行いによって地獄に落ちたとしても、それは自業自得だと思いました。
こうして私は2016年7月に灌頂会に申込をしました。
また、私は、灌頂会の入檀にかかるお金や灌頂に向けてあらかじめ密教、特に秘密集会タントラについての書籍を購入し学ぶためのお金は、その目的ために自ら準備したものでまかないたいと思いました。
普段の仕事で得るお金は基本的に家族のためのものであり、家族のお金だと考えています。そのため、家庭のお金からまかなうというのは理に適っていないことだと思いました。
とはいえ、私は個人的な貯金をしていませんでした(笑)
そこで、過去に仕事としていたホロスコープやコーチングの個人セッションを一時的に再開することにしました。私は、これまでのクライアントさん向けに、一時的に再開することとその理由(灌頂会への入檀)を記したメールを一斉に送信させていただきました。
一時的な再開でお仕事を受ける人数は32名としました。
その理由のひとつは、秘密集会タントラの曼荼羅の諸尊の数が32尊だったからです。そして、灌頂会には、今回クライアントとなってくださった32名の方々と一緒に灌頂を受けに来たのだと観想し、その方々へ功徳を回向しようという思いがありました。
有難いことにメールを送った当日に、半分以上の枠の申込があり、何とか必要なお金をまかなうための目処が立ちました。
私は深く感謝しました。さらには、ダライ・ラマ法王の灌頂を受けるということへの祝福の言葉を伝えてくださる方々も多くあり、深く感銘を受けました。
セッションについては、二人目の娘が生まれる前日に、27名目のセッションが終わり、出産後は家庭のことで忙しくとてもセッションする余裕などなく、不思議なことに申込もピタッと止まりました。そのため、32名には達しないかなと感じていたのですが、灌頂の数週間前に勤めている会社の代表夫妻のセッションが入り、これで29名となりました。
そのとき私は、そこに妻と娘二人を入れたら32名になることに気づきました。これは私にとって、家族もつれて灌頂を授かりにいくということであり、そう考えることは私自身の心にピタッときたので、これでちょうど32名ということになりました。
こうして、私は、2006年の初めての出逢いから10年の時を経て、ダライ・ラマ法王猊下から直接、密教の灌頂を授かることができるという機会を頂戴したのでありました。
次回は、この度の灌頂を授かることが決まるまでに私が読み学んできた書籍の中で、今回の灌頂と関係が深いと感じたものをまとめてみたいと思います。