煩悩とは何か
煩悩についての定義
煩悩とは、私たちの心身をかき乱し、悩ませ、苦しみを生じ、智慧の働きを妨げる心の働きです。
煩悩は、私たちがあるがままの真実を認識することを妨げる障害であり、私たちが悪しき行いをしてしまう原因であり、悪しき行いの結果として経験するあらゆる苦しみの原因です。
煩悩 〜 業 〜 苦
何故、煩悩は汚れた心の働きと言われるのでしょうか。
それは、煩悩が汚れた行い(業)を引き起こす原因であり、汚れた行いが私たちが苦しみ(苦)を経験する原因だからです。
1. 私たちが経験する苦しみの原因と条件なっているのが煩悩
2. 私たちが犯す間違った行い・悪しき行いの原因と条件となっているのが煩悩
また、煩悩にもとづいてなした汚れた行いによって苦しみを経験し続けている有様を「輪廻」と呼びます。私たちは幸せを願い苦しみを厭いながらも、苦しみの原因と条件を作り続け苦しみ続けています。
苦しみの消滅
苦しみが煩悩・業という原因・条件から成立しているとすれば、苦しみの原因と条件が消滅すれば、苦しみという結果も消滅することになります。
つまり、苦しみを消滅させるための方法は次の2つです。
1. まず、苦しみの原因と条件となっているものを理解すること
2. 次に、苦しみの原因と条件を消滅させることです。
この記事について
煩悩についての一覧
この記事は私たちが苦しみの原因と条件となっているものを理解するためのきっかけとして、ブッダダルマにおける煩悩についての教えの一端を私的にまとめてみました。
仏教の様々な学派や過去の聖賢たちが心の働きを煩悩という視点で細かく分類し、分析してくださっています。それについて参考書籍をもとに一覧的にまとめました。煩悩についての理解を深めるきっかけとなれば幸いです。
ダライ・ラマ法王のご教示
参考として、心の働きを細かく分類して分析することについて、ダライ・ラマ法王が唯識における心の働きの分類を解説された際に述べられた次の言葉を引用させていただきます。
このような細かい心理分析は、我々の心のあり方を明確に自覚するためには、きわめて効果的なものです。
自らの心を反省するときに、これらの項目に照らして、その心理状態を考えることができます。
『ダライ・ラマの仏教哲学講義』
当記事の活用について
煩悩について学ぶのが初めての方は「三毒」「根本煩悩」を考察していただくと理解が深まるのではないかと思います。
また、日常生活における自分自身の心の働きや行いを省みながら考察したい場合は「随煩悩」の項目が適していると思います。
当記事が、私たちが自分自身の現実的な心の働きを分析することに役立ち、私たちが苦しみを消滅させるためのほんのささやかな因縁にでもなれましたら幸いです。
根源的な煩悩
無明(むみょう)
無明とは「明かりが無い」こと、つまり、真実に暗いという根源的な無知を意味しています。
「明かりが無い」とは、ものを実体として認識してしまうことです。
それは、あらゆるものが他のものに依存して存在しているという真実を理解することができず、物事が他のものに依存せずにそれ自体で存在していると間違って認識することです。
他のものに依存して存在しているという、物事のありのままの在り方を誤認し、自己や他者(対象)が実体をもって存在しているのだと思い込んでしまうことから、後述する様々な煩悩の働きが生まれてきます。
そのため《無明》がすべての煩悩の源(根源的無知)であると言われます。
私たちは「明かり(正しい認識)」がなければ真実を認識することができません。この明かりがない状態が無明です。これがすべての煩悩と業と苦しみの原因です。
「私(我)」が、それ自体で存在していると感覚されると、同時に他者が「私」とは別の存在であると区別されて認識されます。そして、この「私」に対する執着が生まれ、次に、何らかの対象に対して「私のもの(我所)」という執着が起きてきます。
この「我」と「我所」という2つの錯覚によって、私たちの心に無数の煩悩が生まれ、煩悩にもとづいた行いを重ね、輪廻を繰り返し、苦しみを味わいます。
三毒
三毒とは、私たちを悩み苦しませる根本的な3つの煩悩(貪瞋痴)を毒にたとえたものです。先述の根源的な煩悩である「無明」は、三毒の痴(愚痴)に対応しています。
1. 愚痴(ぐち)
これは根源的な煩悩である無明のことです。
愚痴とは、諸々の道理や真理、ものごとの本性(本質)、ありのままの真実に対して、その本当の姿がわからないことです。
具体的には、自己や他者が実体をもって別々に存在していると誤認し、自分がそれ自体で独立して存在していると思い違いをすることです。つまり、愚痴とは、あるがままの現実(無我)を正しく認識することができていないことです。
これによって私たちは自己愛着(自分に対する執着)を生じ、それが一切の苦しみの原因となります。
2. 貪欲(とんよく)
貪欲とは、何かに執着すること、愛着することです。
愚痴によって自己と他者を別々のものと分けて認識したことで、自己に執着する心が生まれ、それによって自己にとって好ましい対象(他者)を自分のものにしようという心の働きが生まれます。
貪欲とは、自分自身に執着し、煩悩の快楽に執着し、何らかの対象に執着し愛着することです。それは「あれが欲しい」「これが欲しい」「死にたくない」「手離したくない」という執着や貪りの心の働きです。
3. 瞋恚(しんい)
瞋恚とは憎悪のことです。
貪欲が好ましいものを手に入れようとする心の働きとすれば、瞋恚は好ましくないものから離れたいという心の働きです。
瞋恚とは、苦しみや苦しみの原因、自分にとって好ましくないもの、自分の思い通りにならないものなどに対して憎しみ怒ることです。この煩悩によって心の安静を失い、苛立ち、間違った行いをなしてしまいます。
根本煩悩
六大煩悩とも呼ばれるのが根本煩悩です。これらはあらゆる煩悩の根本となるものなので、根本煩悩と呼ばれています。
すべての煩悩の源である無明は貪欲・瞋恚とともに三毒に収められ、三毒はまたこの6つの根本煩悩に収められています。
1. 愚痴(ぐち)
この記事では3度目の登場です。
愚痴(無明・無知)は、文脈によって解釈や解説が変わることがありますので、その点について記しておきたいと思います。
愚痴は、ものの真実相(本質的なあり方)を認識することを妨げる無知な意識のことです。
これを真実を誤解している心と捉えることもありますし、単に真実を知らない心と捉えることもあります。また、物事の実体を誤解している意識と解釈することもあります。
いずれにしても、ものごとの道理・真実・本性を正しく認識することができないことを愚痴と呼んでいるのだと思います。
2. 貪欲(とんよく)
自分にとって好ましい対象を「自分のもの」にしようという煩悩です。あらゆる執着は貪欲という煩悩を根っことしています。
3. 瞋恚(しんい)
自分にとって好ましくない対象を嫌悪する煩悩です。あらゆる怒り・憎しみ・イライラは瞋恚という煩悩を根っことしています。
4. 慢(まん)
慢は他者よりも自分を上に思おうとする心の働きです。
他者と自己を比べ、他者に対して自己の優越を思おうとする慢心のことです。
慢には以下の7種類あります。
1. 我慢:自己が実体的に存在していると考えること
2. 慢:自分より劣ったもの・同等のものに対して自分のほうが優れていると思い上がること
3. 過慢:自分と同等のものに対して自分のほうが優れていると思い上がること
4. 卑慢:ケタ違いに優れたものに対して(「(相手は)大したことはない」などと)自分が少ししか劣っていないと思い上がること。また、自身を卑下して低くしながらうぬぼれること
5. 慢過慢:自分より優れたものに対して(相手の欠点を探したりして)自分のほうが優れていると思い上がること
6. 邪慢:本来は恥ずべき愚かな行いに対してうぬぼれること
7. 増上慢:まだ悟りを得ていないのに悟ったとうぬぼれること
これら慢心のある人は、善き性質としての徳そのものにも、徳がある人に対しても謙虚になることができず、善や徳とは反対の間違った行いを重ねてしまうといいます。
5. 疑(ぎ)
疑とは疑いのことです。
諸々の道理や真理に対して、本当にそうであると思うことができずに疑ってしまう心の働きです。
道理や真理に対する信(冷静で客観的な信頼)という善なる心の働きを妨げてしまうため、疑のある人には善が生じないと言われています。
6. 悪見(あっけん)
悪見とは、煩悩に汚された知性の働き(煩悩を伴った知識)です。
悪見は、煩悩に汚れた知性によって本来の道理を逆さまに考えてしまい、誤った結論へと私たちを導きます。
悪見には次の5つがあります。
1. 有身見:身体や自我を実体的なものと見て、常住な自分があるとすること
2. 辺執見:常住と断滅、有と無のどちらか一方の極端にとらわれること
3. 見取見:誤った見解や自分の見解が正しいものだと執着すること
4. 戒禁取見:誤った戒律(正しい行い)を正しいものと思いこむこと
5. 邪見:否定できない現実的な因果関係などを否定すること
これらの悪見は、正しい認識(見方)を妨げ、結局は、苦しみをまねく働きをします。「悪見の者は多く苦を受くるが故に」と説かれています。
随煩悩
次に付随的な煩悩と呼ばれる20の煩悩があります。
付随する(随う)ということの意味としては、ひとつには、根本煩悩をある異なった角度から見たものということ(同じ怒りでも別の角度から見たら嫉妬に見えるなど)、ふたつには、根本煩悩と同じ類のものということです。
1. 忿(ふん)
これは、自分にとって好ましくない対象に、身体的な暴力をふるうほどまでの憤りを発することです。この煩悩をもつと物理的に暴力をふるうような行為をしてしまいます。
2. 恨(こん)
これは、怒りを覚えた相手に対して、いつまでも憎しみ続け、怒りがおさまらずに恨み続けることです。この煩悩をもつと耐え忍ぶことができず、怒り、苦しみ、悩み続けることになります。
3. 覆(ふく)
これは、自分が犯した罪を隠してしまうことです。この煩悩をもつと必ずのちに後悔して思い悩み、心が穏やかではなくなります。
4. 悩(のう)
これは、過去の怒りの対象を思い出したり、いまその対象に触れることで、ひがんだり、ひねくれたり、ねじけたりと懊悩することです。この煩悩をもつと相手の急所を攻撃しようと、野蛮で下品な言葉を発して、相手を口撃してしまいます。
5. 嫉(しつ)
これは、自分の名誉や利益を求め、他者の善や栄誉を耐えられず、妬ましく思うことです。この煩悩をもつと他者が成功したり利益を得ることを見聞きすると憂鬱になり、心は穏やかになることはできません。
6. 慳(けん)
これは、物惜みしてケチなことです。この煩悩をもつと他者と分かち合うことができず、自分のものだと溜め込んで手放せずに、卑しくなります。
7. 誑(おう)
これは、本当の自分と違うありかたを見せかけて、本当は徳がないのに優れた徳があるかのように他者を偽りあざむくことです。この煩悩をもつと相手を騙してやろうという気持ちを抱き、真実ではない誤った生き方をすることになります。
8. 諂(てん)
これは、自分の罪を隠すために相手を丸め込もうと事実と異なることをやたらと言うことです。この煩悩をもつと素直に相手からの正しい指摘を受け入れることができなくなります。
9. 憍(きょう)
これは、自分が優れていると思うことに対して、酔いしれてうぬぼれることです。この煩悩をもつとあらゆる汚れた思いや行いを育てていくことになります。
10. 害(がい)
これは、他の命あるものに対して同情し思いやる気持ちがなく、傷つけ、損ね、悩ませることです。この煩悩をもつとひたすらに他者を悩ませることになります。
11. 無慚(むざん)
これは、修行している人や修行そのものを遠ざけて否定し、自らの間違った行いや罪を恥じることがないことです。この煩悩をもつと諸々の悪しき行いをすることになります。
12. 無愧(むき)
これは、世間を顧みず、他者の意見を顧慮せず、悪や悪人を尊重することです。この煩悩をもつと悪人に近づき、悪を恥じず、諸々の悪しき行いを犯していきます。
13. 昏沈(こんじん)
これは、心が沈みこんで暗くなり、対象を観察して考察することができなくなることです。この煩悩をもつと軽やかな心身の状態や対象を観察する心の働きが妨げられます。
14. 掉挙(じょうこ)
これは、心を興奮の対象にまきちらしてしまい、心を統一して対象に向かうことができなくなることです。この煩悩をもつと平静な気持ちや瞑想(止観の止)の対象に心を集中させることが妨げられます。
15. 不信(ふしん)
これは、現象世界の事象とその真実のあり方、仏法僧の三宝、自己を成長・進化させる修行を信じる(信頼する)ことができないことです。この煩悩をもつと心のすべてを汚すため、自分も汚し同時に他をも汚していきます。
16. 懈怠(けだい)
これは、善から遠ざかって、善に努力して悪を断じることに取り組まずに何もしないでいること、また、悪に関わり悪行に一所懸命取り組んでいることです。この煩悩をもつと悪に関わってしまい汚れた思いや行いを増してしまいます。
17. 放逸(ほういつ)
これは、欲望のおもむくままに行動し、いつまでもそれをし続けてしまい、悪を防ぎ善に励むことができないことです。この煩悩をもつと悪を増して善を損ねていくことの拠り所となります。
18. 失念(しつねん)
これは、心が散乱して、明らかに記憶することができないことです。この煩悩をもつと心が浮ついて集中することができず、正しくものごとを憶念することが妨げられます。
19. 不正知(ふしょうち)
これは、対象を誤って理解することです。この煩悩をもつと対象を正しく知ることができず、正しく物事を知らないことで誤った行いを犯してしまいます。
20. 散乱(さんらん)
これは、心が不安定で落ち着きがなく、次から次へと色々な対象を追いかけてしまうことです。この煩悩をもつと正しい瞑想を妨げ、心を統御することができないので、間違った(悪しき)判断や理解を生じてしまいます。
まとめ
この記事でまとめた煩悩の一覧について以下に記載させていただきます。
1. 根源的煩悩:無明
2. 三毒:愚痴・貪欲・瞋恚
3. 根本煩悩:愚痴・貪欲・瞋恚・慢・疑・悪見
4. 随煩悩:忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・憍・害・無慚・無愧・昏沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱
参考書籍
この記事を書くにあたって参考にした書籍です。
チベット密教 心の修行
ダライ・ラマの仏教哲学講義
「成唯識論」を読む