ヒンドゥー教

「真我とは何か?」についてのラマナ・マハルシの教え

この記事はラマナ・マハルシのダルマから「真我とは何か」について語られた教えを抜粋したものです。私たちが真我探求の道を歩み出す前に、そもそも「真我とは何なのか」について聴聞しておくことは良いことだと思います。

参考書籍

沈黙の聖者《ラマナ・マハルシ》の入門動画のまとめラマナ・マハルシは真我探求という霊性修行を推奨した南インドの聖者です。 この記事ではラマナ・マハルシを知るための入門動画を紹介して...

 

「真我とは何か?」

「真我とは何か?」についてラマナ・マハルシは次のような表現をされています。

  • 名前と形の根底にある実在
  • 意識としての実在
  • 純粋な覚醒
  • 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)
  • 完全な幸福
  • 真実の「私」
  • 純粋な意識
  • 「私は在る」

 

ラマナ・マハルシの教えの抜粋

それでは上記の参考書籍からいくつかの教えを抜粋いたします。

より深く学びを進めるためには直接参考書籍を読むことをお勧めいたします。

 

実在はつねに真実でなければならない。それは名前も形ももたない。名前と形の根底にあるもの、それが実在である。

限られたものの根底にありながら、それ自体には限りがない。それは束縛されない。実在ではないものの根底にありながら、それ自体は実在として在る。存在するもの、それが実在である。それはただあるがままに在る。それは言葉を超えている。それは「存在、非存在」などといった表現の彼方にある。

 

ものごとの知識も無知もともにぬぐい去られたあとに残る意識としての実在、ただそれだけが真我である。

 

あなたがしなければならないことは、真我でない他のものごとに注意を払うのをやめることだけだ。もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。それが真我である。

 

そこに二元性はない。現在のあなたの知識は自我によるもので、それは相対的でしかない。相対的な知識は主体と客体を必要とする。それに反して、真我の自覚は絶対的であり、対象を必要としない。

 

真我は光ではなく、暗闇でもない。それはただあるがままに在る。それを定義することはできない。最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。

 

その境地は見る者も見られるものも超越する。そこには何かを見ている見る者がいない。これらすべてを今見ている見る者が存在を消し、そしてただ真我だけが残るのである。

 

幸福と呼ばれるもの、それが真我の唯一の本性である。真我とは完全な幸福以外の何ものでもない。

 

つまり幸福は本来人に備わったものであり、外的な原因によるものではないということである。人に生来備わった純粋な幸福の扉を開くためには、真我を実現しなければならない。

 

あなたは真我である。あなたはすでにそれなのである。

 

「この身体が『私』だ」という感覚が誤りなのである。この「私」という偽りの感覚が去らなければならない。真実の「私」はつねに存在する。それは今、ここに在る。それはけっして新たに現れるわけではなく、再び消え去ることもない。存在するものは永遠に在るだろう。

 

真我とは純粋な意識である。誰も真我から離れて在ることはできない。

 

あなたは本当は無限の純粋な存在であり、真我であるということを知りなさい、と私は言うのだ。あなたはいつも真我である。真我以外の何ものでもない。それゆえ、本当はけっして真我について無知ではありえない。

 

苦悩から解放される唯一の道は、真我を知ること、そして真我として在ることである。

 

もしあなたが真我を見るなら、いつでもどこでもすべてが真我として現れるだろう。真我以外の何ものも存在しないのである。

 

自我とは「私」という想念である。真実の「私」が真我なのである。

 

真我にとって時間というものは存在しない。自我が現れたあとで、時間という概念が起こるのだ。だが、あなたは時間と空間を超えた真我である。時間と空間の不在のなかでさえあなたは存在している。

 

「私は在る」は実在である。「私はあれやこれだ」は偽りである。「私は在る」は真実であり、真我のもうひとつの名前である。

 

参考となる情報

ラマナ・マハルシ「私は誰か?」のPDFデータ

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